King's Ring

− 第4話 −





朝になり目が覚めた手塚のすぐ横には、小さな黒猫がシャツの中で丸くなって眠っていた。
昨夜は人間の姿だったので、パジャマ変わりにシャツを着させてベッドの中で寝させたが、夜が明けた事で猫の姿に戻ってしまっていた。
生きている証として、腹の辺りが規則的に動いている。
人間になったり猫になったり、全く異なる物体に変化させる
魔法とはどういう仕組みになっているのか、本当に不思議な事だ。
「…夢ではなかったな。リョーマか…」
昨夜の光景を思い浮かべるが、思い出すのは月明かりの中で佇む少年の姿ばかりだった。
骨格を軋ませながら猫から人間に変わる瞬間は、驚くべき現象であったが、現れた少年の姿は絵に描いたような均等の取れた身体だった。
それも『美しい』と感じてしまうほど。
「…ん、にゃ…」
知らず知らずのうちに寝ていた子猫ことリョーマの背を撫でていた。
柔らかい毛並みについ夢中になる。
その刺激にリョーマは目を覚ましてしまった。
「すまない、起こしてしまったか」
金色に輝く瞳が手塚を見上げる。
「にゃう」
前足で顔を擦る動きは猫そのものなのに、手塚の言葉を理解して頭を左右に振るのは、本来が人間だからだ。
「俺は部活があるので食事を済ませて学校へ行くが、帰るまでは母の相手をしてくれないか」
昨夜のうちに手塚はリョーマに、色々と話しておいた。
世界の事を教えても仕方が無いので、自分の身の回りや、普段の行動など、自分が常にどのような行動をするのかを教えておいた。
「にゃ」
頷きながら小さく鳴いた。
リョーマの方も世話になるのだから、手塚の言う事はしっかりと聞いていた。

「おはようございます」
「おはよう、国光。あら、猫ちゃんも起きたのね」
きっちりと学生服に着替えた息子の腕の中には子猫の姿。
彩菜の声に反応して「にゃー」と鳴いた。
どこか優しげな表情で子猫を抱いている息子に、彩菜は満足そうに微笑んだ。
「朝ご飯出来ているわよ」
「ありがとうございます」
食卓にはすでに朝食の準備が出来ていたので、リョーマを床に下ろして椅子に座った。
「今日は玉子焼きと鮭だけど、お口に合うかしら?」
昨晩と同じように皿に乗せて子猫の前に置けば、頂きます、の代わりに一度鳴いて、玉子焼きを食べ始める。
「まぁまぁ、これも大丈夫みたいね」
はむはむ、と玉子焼きを食べる姿に感心していた。
本来なら猫には毒の食べ物があるはずなのに、彩菜は特に気にしていない。
リョーマの方も元々が人間なので、食べ物に関しては特に不満は無い。
「美味しい?」
「にゃ〜」
食材は似たような感じだが、ただ食べ方が自分の世界とは異なっているだけで、新鮮な感じがする。
リョーマは自分に出された物は全て胃袋に収めていた。
「ご馳走様でした」
食べ終わると食器をシンクに片付ける。
「にゃー」
「あら?猫ちゃんもご馳走様?」
食べ終わった事をアピールするかのように大きく鳴くと、彩菜が気付き子猫の様子を見ていた。
手塚の行動を見ていたリョーマも、それに倣って空になった皿を口に咥えて片付けようとするが、大きさと重さに負けて無理だった。
「まあ、片付けてくれるの?」
一生懸命に皿を運ぼうとする子猫の姿はとても和み、笑顔になるしかなかった。

「行って来ます」
「いってらっしゃい」
部活の朝練習の為、父と祖父よりも早く登校する息子に彩菜は子猫を抱いて見送る。
大人しく抱かれているリョーマには、自分は学校に通っていて戻ってくるのは夕方になると、昨夜のうちの話しておいた。
学校という単語はリョーマの世界にもあるようで、あっさりと納得していた。
「あの、ペットショップには?」
ドアを閉めようとしたが、思い出したように振り返り、訊ねていた。
「今日聞いてみるわ。そうだわ、国光もお友達に訊いてみてくれる?」
「そうですね」
もう一度「行って来ます」と言い、ドアを閉めた。

どこの店に訊いてもこの子猫の事は知らないだろう。
どこから見ても、ただの黒猫の子猫でしかないのだから。
人気のある血統書付きの種類ではない。
それさえはっきりすれば、家で飼う事も名前で呼ぶ事も可能になる。
「今日は早めに帰ろう…」
父は会社に出社し、祖父も道場に出掛けるので、昼間は母だけがいる。
月明かりを浴びないと人間に戻れないのだから、子猫の姿では昼間は危険が多く潜んでいる。
昨日みたいに池に落ちたら一大事だ。
無表情で颯爽と歩きながらも、心の中は心配で仕方が無かった。


「…はい、そうですか。ありがとうございました」
電話帳から何件かのペットショップの番号を探し、迷子の黒猫について訊ねてみるが、どこの店も「問い合わせはありません」との返答だった。
見た目だけなら人気のある猫の種類では無く、巷で見かける野良猫と大差が無い。
「では、暫く預かっていますので、もしもお探しの方がいらっしゃいましたら、連絡を下さい」
受話器を置き、広げていた電話帳を片付ける。
電話を掛けた全ての店に「子猫の情報が入ったら自宅に連絡を下さい」とのお願いはしておいた。
こんなに大人しくて、トイレや食事など全く手間を掛けない子猫だから、きっと躾に厳しい家の飼い猫だと考えていたが、どこからもそんな情報が入って来ない。
もしかしたらどこからか逃げ出して、ここまで来たのかもしれない。
「にゃ〜」
電話を掛ける彩菜の足元でリョーマは成り行きを聞いていたが、ここから出される事は無いのだとわかり、前足で彩菜の足をポンポンと叩いた。
「今日から暫くはこの家の子になってね」
爪を出さずに小さな前足で足を叩く子猫を、両手で優しく抱え上げる。
にっこりと柔らかく笑い掛ける彩菜に、こちらもよろしくお願いしますとリョーマも鳴いた。


手塚が夕方の部活を終えて自宅に戻ると、母親よりも先に出迎えたのはリョーマだった。
「にゃ〜」
とことこ、と軽い足音を立てて玄関にやって来たリョーマは、手塚を見上げて鳴く。
「ただいま」
まるで「お帰りなさい」と語り掛けているようで、靴を脱いでからリョーマの頭を撫でれば、気持ち良さそうに目を細めた。
たまに見かける野良猫は人に姿を見ると、一目散に逃げてしまうので触る事など不可能に近い。
猫の姿に変えられているだけだが、動きは猫そのもの。
猫がこんな表情をするなんて初めて知った。

「ただいま戻りました」
リョーマを引き連れてキッチンで夕食の支度をしている母親に挨拶をする。
「お帰りなさい、国光。猫ちゃんの事なんだけどね、今のところは何も情報が無いの。ご近所にも聞いてみたんだけど、やっぱりわからなくってね。だから暫くの間は家で飼おうって思うのよ」
「それが良いと思います」
想像していた通り、この猫に対しては探している人物はおらず、いるとするのなら、リョーマに魔法と言うか呪いを掛けた魔法使いのみ。
父も祖父も昨日だけでかなり気に入っていたのだから、母の申し出を断るような真似はしないはずだ。
「名前を付けてもいいのかしら」
「野良猫である可能性もある事ですし」
「それもそうね。それじゃあ何がいいかしら。国光は何か良いアイデアあるかしら?」
安易な名前は避けたいのか、色々な名前を口にするが、どうも納得の行く名前が思い付かない。
「片仮名でリョーマ…はどうでしょう?」
さり気無く本当の名前をアイデアとして出す。
下手に変な名前を付けるよりも、本人の名前を使った方が良いに決まっている。
「リョーマ?またどうして?」
「つい先日、坂本竜馬の伝記を読んだので、しかし漢字よりもカタカナの方がペットらしいと思いまして」
どういう行き先でそんな名前を付けたのかは訊かれると思って質問だったので、返答は予め考えておいた。
「そうなの?リョーマね…うん、いいじゃない」
彩菜はこの名前を気に入ったのか、子猫の前にしゃがみ込んで「リョーマちゃん」と呼べば、リョーマもお返しとばかりに「にゃー」と鳴いた。


食事を済ませると、手塚はリョーマを連れて部屋に戻る。
今夜の献立は煮魚と筑前煮とお吸い物。
リョーマも同じメニューをもらい、魚は骨だけを残し、筑前煮は一切れも残さずに食べていた。
あとは風呂に入るだけだが、猫用のシャンプーで洗うよりも人間のシャンプーで洗った方が良いと思い、暫く勉強をすると話して家族には先に入ってもらっておいた。
リョーマが人間である事は誰にも教えていない。
厳格な祖父はもちろんだが、両親が知ったらどんな反応をされるかわからないからだ。
リョーマをどこかの研究所にでも連れられて行かれたら、それこそ一大事。
この秘密はリョーマが呪いを解く方法を見つけるまで、何が起ころうとも絶対に守らなければならない。
手塚にはそこまでの決意が生まれていた。
「…今日は何をしていたんだ」
「今日はね、テレビを見させてもらってから、新聞って大きな紙に書いてある文字を読んだよ。日本語って難しいね…」
電気を点けない部屋の中の明かりは窓から差し込む月の明かりだけ。
その中でリョーマは元の姿に戻る。
用意された服を着れば、手塚は部屋の電気を点けて、カーテンを閉めた。
一度戻れば夜が明けない限り元に戻る事は無い。
「リョーマが話しているのは紛れも無い日本語だが」
勉強机の椅子に座り、出された課題を始める。
「きっとこの世界に順応する能力があるのかな?だから日本語でも英語でもフランス語でも言葉としては理解できるけど、それが文字になると訳がわかんない」
リョーマは大人しくベッドに座っていたが、気になって近寄ってみた。
「…お勉強中なんだね」
ひょいと覗き込めば、何かのプリントに文字を書き込んでいる最中だった。
何が書いてあるのかは、少しずつしか理解できない。
「すぐに終わらせるから待っていてくれ」
「…待ってる間、ここの本を読んでもいい?」
自分の背丈よりも高い本棚。
隙間無く並んでいる本の種類は、最近のベストセラー作品から洋書まであり、知識を仕入れるのには充分な素材だった。
「ああ、構わないぞ」
「ありがと」
たくさんある中から一冊を選び出し、それを持ってベッドに戻った。

課題を終わらせて椅子を回転させれば、ベッドにもたれて本を読んでいるリョーマの姿が目に入る。
端から端までじっくり読むと、次のページに移る。
「リョーマ?」
そこまで真剣に読める本なら、今度自分も読もうとリョーマが持っている本の題名を見る為に立ち上がる。
「…あ、終わったの?」
本に影が映り込み、リョーマは本から顔を上げた。
「何を読んでいるんだ」
「これ、日本語の練習にもなるし、意味もわかるから」
「辞書か…なるほどな」
リョーマが持っていた、ぶ厚い本の題名は国語辞典だった。

頃合いを見計らって手塚は階段を降りる。
手塚の後からそろりと階段を降りるリョーマには、絶対に声を出さないようにと言い聞かせておいた。
今の時間なら祖父は既に眠っているし、両親も自室にいるか、リビングにいるかのどちらかだ。
リビングに灯りが点いているので、先にリョーマを脱衣所に入らせて、手塚は両親に風呂に入る事を伝えていた。
「…へ〜、何かカッコイイね」
脱衣所から風呂場を見て、リョーマは驚いたような声を出した。
「これが普通だぞ」
服を脱ぎながら、小声で応える。
「そうなんだ。トイレはだいたい同じだけど、俺の住んでたとこの風呂って岩を重ねた物だったから…」
「…そちらの方が、趣があっていいのではないのか?」
「そうかなぁ」
こっちの方がカッコイイ、と言いながらリョーマも着ていた物を脱ぎ始めるが、その目はシャツを脱いだ手塚の背中を凝視していた。
「どうした?」
視線を感じ、振り返る。
「…背中、酷い傷…」
「……ああ、これか…」

痛そうな表情に、思わず返事をするのが遅くなる。
リョーマが見ていた手塚の背中には、痛々しいほどの傷痕が残っていた。
「…痛い?」
「いや、痛みは無いのだが、実はこの傷がいつからあるのか俺自身もわからないのだ」
「え?だってこんなに酷いのに?」
肩甲骨から腰まで続く傷痕。
これほどの傷ならば、痛みだって相当酷かったはずだ。
「幼い頃のかと母に訊いてみたのだが、母からも知らないと言われてな…」
「そうなんだ…」
「ほら、冷えるから中に入れ」
「うん…」
暖かい湯気が立ちこめる風呂場へ2人は入って行った。

本人も気付かないうちに背中に付いていた傷。
この傷痕がこの後の2人に大きく影響するとは、今は全く知る由も無かった。



う〜ん、一体どんな話になるのかしら?